株式会社沖縄ソフトウェアセンター 20周年記念誌

当社は2022(令和4)年10月1日、創立20周年を迎 えることができました。これもひとえにお取引先 様や株主をはじめとするビジネスパートナーの皆 様および沖縄県、県内外の情報通信産業関係者の 皆様のご支援、ご指導のおかげと、深く感謝申し 上げます。 当社は1998(平成10)年に、沖縄県が策定した 【沖縄県マルチメディアアイランド構想】を背景 に、沖縄県の経済発展のために情熱に燃えるソフ トウェア会社から有志を募り、オール沖縄を合言 葉に2002(平成14)年に(株)フロンティアオキナワ 21として創業いたしました。その後、2008(平成 20)年に沖縄IT津梁パークの中核企業として増資を 行い(株)沖縄ソフトウェアセンターへ商号変更し、 新たな一歩を踏み出しました。 当時を振り返ってみますと、私が(株)フロンティ アオキナワ21の業務に関わったのは2004(平成16) 年に、当時の饒平名社長(現顧問)より第一生命保 険(株)プロジェクトがスタートするので、ブリッ ジSEとして参画できないかとお声掛けいただき、 ブリッジSEという初めて聞く響きに感動して引き 受けた記憶があります。しかしながら、その後の 業務は私にとっては苦難の日々でした。初めて顔 を合わせるメンバー3名体制で私は上流工程の作 業と他2名の進捗管理、以下2名は下流工程の作 業を習得する役割で進めていました。初めて触れ るBiz/Browserツールの習得と仕様書・製造・成果 物に対しての規約ルールの要求遵守、特に保険業 務を覚えるのが一番きつく苦労しました。何もか もが初めての試みで約9カ月間のオンサイトでの 常駐を無事に終え、沖縄への持帰り開発が実現し ました。その後、約2年間プロジェクトが続き多 い時には株主・ビジネスパートナーからご協力い ただき30名体制まで規模を拡大し、納品に向けて 無我夢中で仕事をしていたことを今でも鮮明に覚 えています。現在の私があるのは第一生命保険(株) プロジェクトを経験した実績と、私にお声掛けい ただきいろいろと仕事のノウハウを教えていただ いた饒平名さん、プロジェクトマネジメントを教 えていただいた木場さんのおかげだと大変感謝し ております。 その後、日産自動車(株)・日本電子計算(株)・(株) NSソリューションズなどから大型案件の依頼があ り200(8 平成20)年頃から営業部・システム開発部 の部長を兼任してプロジェクトを進めてきました が、受け入れ要員・プロジェクトの数が多くなるな か、さまざまな課題が発生し、当時の饒平名社長 の強い要望により、ニアショア開発における共通プ ロセスの必要性を感じ、CMMIの取得に向けて動 き出しました。それから約2年半掛けてレベル3の 成熟度達成を認定いただき、全プロジェクトに適 用することで共通化・視える化を図りました。 株式会社 沖縄ソフトウェアセンター 代表取締役社長 松田 崇 創立20周年を迎えて 発刊のご挨拶 弊社の最も重要な取引先である第一生命保険関 連プロジェクトは延べ18年間継続しています。現 在では、業務ノウハウも蓄積し付加価値の高い上 流工程からの業務も増えたことで「リモートエン ハンス事業」と位置づけて80名前後の開発体制で 推移していますが、将来的には100名体制を目指し て頑張っています。 次に大きな事業の柱は、(株)T&Dホールディン グスIT子会社のT&D情報システム(株)からの受託 業務です。2017年に大同生命保険(株)の案件がス タートし、現在では大阪常駐者5名、沖縄側では 35名体制で下流工程の作業を行っています。また、 2022(令和4)年には、太陽生命保険(株)の案件がス タートして沖縄側ではシステムエンジニア11名体 制、プログラマー4名、オープン系画面開発7名 体制で下流工程からのリモートエンハンス業務を 行っています。今後は大同生命保険(株)・太陽生 命保険(株)の案件共にスキルアップを図りながら 上流工程へチャレンジし付加価値の高い「リモー トエンハンス事業」の拡大を目指して頑張ってい きたいと思います。 2020(令和2)年初頭に始まった新型コロナウイル ス感染拡大の影響で、短期間で在宅勤務・テレワー クが普及し、必ずしも首都圏で仕事をする必要が なく、通信が繋がる所であれば場所を選ばず仕事 をこなすことができるようになり、当社が設立当 初から目指してきたITによる地方分散開発が加速 しつつあります。 全国的なIT人材不足の波は沖縄も例外ではなく、 沖縄のニアショア開発が認知されるようになり、 当社も県外大手企業から幾度となく提携の話しは あるものの、人手不足による体制構築が厳しくお 断りをしているのが現状です。このような構造的 な課題への対策として、6年前よりIT人材育成の 取り組みを進めてきました。弊社が中心になりIT 株主の皆様にお声掛けし、合同でIT未経験者を公 募して人材育成コンソーシアムを立ち上げて10代 ~ 30代の方々を採用し、8カ月間集中的に専門的 教育を行い、毎年5名~ 10名前後の新たなIT人材 を輩出しています。 また、創業当時の社員比率は、社員3割、株主 を中心としたビジネスパートナー7割の構成でス タートしましたが、現在では、株主・ビジネスパー トナーもIT人材不足の状況にあり、新たな開発体 制の構築が容易ではなく、お客さまへのご要望に お応えすることができず、現在では5:5の比率ま で低下し、節目である創立20周年を迎え、改めて オール沖縄による協業の意義を考える必要があり ます。 当社は、DX(デジタルトランスフォーメーショ ン)推進と今後の人手不足対応のためのコード自動 生成化に向けた対応に着手し、株主・ビジネスパー トナーとの協業に向けて新たなニアショア開発の メニューを確立してまいります。初心者向けのカリ キュラムを作成し、沖縄の子育てひとり親世帯向 けに、リモートワークで在宅勤務が可能なIT業務 の仕事を提供していきたいとも考えています。 最後に、弊社は沖縄の情報通信産業発展に寄与 し株主と共に沖縄のソフトウェア開発力を結集し 日本とアジアをつなぐ架け橋を目指すという企業 理念を持って、30周年、50周年を目指して役職員 一同、社業の発展・社会貢献に全社一丸となって 取り組んでまいります。引き続き、関係者各位の 皆様方のご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し 上げまして、挨拶とさせていただきます。 2 3 20 第1章 年の歩み 第2章 各部・委員会・ BP紹介 第3章 今後の事業展望 資料編 ご挨拶・祝辞

株式会社沖縄ソフトウェアセンターの創立20周年記念誌の発刊にあたり心よりお祝い申し上 げます。 御社におかれましては、沖縄県内の情報通信産業を牽引する有力企業の出資のもと、平成14 年10月に前身となる「株式会社フロンティアオキナワ21」を設立されて以来、沖縄県内におけ るソフトウェア開発の技術向上や人材育成に努められ、現在では沖縄IT津梁パークの中核企業 として、ビジネスパートナー 28社、開発要員体制200名弱の組織まで成長するなど、本県の情 報通信産業の発展に大きく貢献してこられました。 また、県が平成10年に策定した「沖縄県マルチメディアアイランド構想」をはじめ、3次に わたる「沖縄県情報通信産業振興計画」や「おきなわSmart Hub構想」の推進により、本県の 情報通信産業が多くの雇用を創出し、沖縄の地理的不利性を克服する外貨獲得産業へと発展で きたのも、御社をはじめとする関係各位の御尽力の賜物だと感謝しております。 現在、沖縄県の情報通信産業においては、約900社の企業の集積と42,000人を超える雇用が創 出されており、着実に同産業の規模は拡大しておりますが、今後の更なる発展に向け、県では 「情報通信産業が変革を通じて『稼げる産業』へと成長し、産業DXを支えるパートナーとなり、 沖縄の産業の持続的な発展に寄与する。」ことを目標とした「おきなわSmart産業ビジョン」を 策定したところです。 同ビジョンは、本県の今後10年間の情報通信産業振興や産業DXの加速化などに向け、各主 体が実施する自発的な活動の指針としても位置づけており、特にソフトウェア分野においては、 付加価値の源泉となる人材の育成・確保に加え、企画力、技術力、マネジメント力等企業の総 合力を高めていくことで、県外から高度な開発案件を獲得していけるよう積極的な取組を推進 することとしております。 同ビジョンの実現のためには、これまで御社で培われてきた高度な技術の活用に加え、新た なビジネスモデルへの転換やイノベーションの創出など、御社の先進的な取組がますます重要 となるものと考えておりますので、今後とも本県の情報通信産業のリーディングカンパニーと して、同産業の振興に御支援・御協力を賜りますよう心からお願い申し上げます。 結びに、株式会社沖縄ソフトウェアセンターのますますの御発展と関係者の皆様の一層の御 活躍を祈念しまして、お祝いの言葉といたします。 沖縄県知事 玉城 デニー 祝 辞 祝 辞 株式会社沖縄ソフトウェアセンターが創立二〇周年を迎えられ、ここに記念誌を発行されま すことを心よりお祝い申し上げます。 貴社におかれましては、県内の有力なソフトウェア開発会社七社が結集して、首都圏のソフ トウェア開発を受注することを目的に平成十四年一〇月に設立されて以来、情報通信産業の振 興及び国際競争力向上の拠点である沖縄IT津梁パークにおいて、中核企業として協働を進める 起点となり、県外からソフトウェア開発業務を代表受注し、県内のIT人材と技術を活用・集積 することにより、県内IT産業の量的・質的向上に大きく貢献してこられました。これも歴代役 員をはじめ関係者各位が一丸となって日頃ご尽力されてこられた賜ものと心からお喜び申し上 げるとともに、深く敬意を表する次第であります。 また、「ユースエール」企業に認定され、地域の雇用創出やソフトウェア開発人材の育成に も積極的に取り組まれていることにつきましても、誠に意義深いことであります。 公庫は、貴社の設立趣旨及び成長性に期待して、この間出資2回及び融資によりご支援させ て頂きました。政策金融の立場から貴社のお手伝いができましたことを大変喜ばしく感じてい るところでございます。 さて、令和四年五月に策定された「新・沖縄21世紀ビジョン基本計画」の基本施策において、 本県における産業振興、離島・過疎地域の不利性克服、子どもの貧困等の課題の解決や、先端 的なデジタル技術を活用した利便性の高い社会システムの構築に対応するため、情報通信産業 の更なる高度化・付加価値化を推進するとともに県経済の成長に貢献する産業DX(デジタルト ランスフォーメーション)の牽引役としての役割が期待されており、また沖縄IT津梁パークな ど情報通信産業集積拠点の機能強化等が掲げられております。今期スタートした貴社の第6次 中期経営計画の着実な遂行がこれらの施策と効果的に融合し、県経済の振興・発展に一層寄与 されますことをご期待申し上げます。 結びに、松田社長をはじめ関係者各位のたゆみないご尽力に改めて敬意を表しますとともに、 株式会社沖縄ソフトウェアセンターの益々のご発展を心よりご祈念申し上げ、お祝いの言葉と させていただきます。 沖縄振興開発金融公庫 理事長 川上 好久 4 5 20 第1章 年の歩み 第2章 各部・委員会・ BP紹介 第3章 今後の事業展望 資料編 ご挨拶・祝辞

沖縄ソフトウェアセンター創立20周年、まことにおめでとうございます。 私は沖縄IT津梁パーク構想について、設置場所の選定から関わっており、個人的にも感慨深 いものがあります。 沖縄IT津梁パーク構想を推進するにあたっては、同構想の中核を担う「沖縄ソフトウェア・ オフショアコア会社(仮称)」の設立を検討するための「コア会社運営検討委員会」が設置され ました。 その委員会にて、オール沖縄での取り組みという同様の設立趣旨をもち2002年に設立した「フ ロンティアオキナワ21」の資本を増強し、コア会社を形成することが、より効果的であること が確認され、2008年に「沖縄ソフトウェアセンター」が誕生しました。 リーマンショックや東日本大地震、新型コロナウイルス感染症等さまざまな困難な局面があ りましたが、それらを乗り越え、IT産業は観光と並ぶ沖縄県のリーディング産業にまで発展し てきました。 これも、同構想の中核企業である沖縄ソフトウェアセンターをはじめとした県内IT企業の弛 まぬ努力と成長・発展があってこそのことであります。 Society5.0時代を迎え、新たな取り組みが必須となっています。沖縄ソフトウェアセンター のさらなる成長発展を期待しています。 一般社団法人沖縄県情報産業協会 会長 知念 克也 創立20周年、誠におめでとうございます。 株式会社沖縄ソフトウェアセンター(OSC)様の前身である株式会社フロンティアオキナワ21 (Fo21)の時代である2004年に、弊社が受託していた、第一生命保険株式会社のシステム基盤お よび事務オンラインの刷新大型プロジェクトで使用する画面開発に参画いただいたのが、長い お付き合いの始まりです。 稼働後も、大量の画面保守開発をご支援いただくとともに、弊社府中事業所(東京都)の開発 拠点にも常駐いただくなど、OSC社内での生保システムに関する人材の育成が進み、開発スキ ルも向上され、安定した納品をご継続いただきました。 その後、金融事業ではシステム機能の高度化・複雑化が飛躍的に進み、システム開発での人 材開発・開発パワー増強・開発手法改革を進めてきました。その一環として、2009年に、OSC 社の新たな拠点である「沖縄IT津梁パーク」と弊社の府中拠点を結ぶ「リモート開発」の構想 がスタートしました。短い期間ではありましたが、人員体制の整備と環境構築を終え、2010年 7月に沖縄―府中間のリモート開発を正式にスタートしました。弊社での初のリモート開発・ ニアショア拠点構築となり、OSC社員の皆様のご活躍により、委託範囲は、オープンアプリケー ションから中核となる個人保険の基幹システム(ホストシステム)開発・保守に拡大し、現在に 至っております。 OSC社の皆様と一緒に築いてまいりました、人材育成や人材交流を含めた協業体制は、今後 のシステム開発・保守局面でもさらなる発展が期待されます。新型コロナの副産物である在宅・ リモート環境での業務を、先んじて実行してきたOSC社のノウハウは、次なるシステム開発・ 保守に大いに役立つ武器です。この先も優れた沖縄のIT技術者を着実に育て上げ、沖縄のIT事 業体の代表企業としてOSC社が益々ご発展されますことを祈念いたします。 第一生命情報システム株式会社 代表取締役社長 佐藤 智 祝 辞 祝 辞 6 7 20 第1章 年の歩み 第2章 各部・委員会・ BP紹介 第3章 今後の事業展望 資料編 ご挨拶・祝辞

株式会社沖縄ソフトウェアセンター様におかれましては、ここに創立20周年を迎えられまし たことを心より御祝い申し上げます。20周年の節目を迎えられることができましたことは、ひ とえに松田社長および役職員の皆様方、そして歴代社長や諸先輩方の並々ならぬご尽力と、加 えて関係各位皆様のご支援の賜物とお喜び申し上げます。 沖縄県の情報通信産業は、1998年に「沖縄県マルチメディアアイランド構想」による「情報 通信産業創出および高度情報通信社会の先行的モデルを形成する」目的で計画され、2002年に 「沖縄県情報通信産業振興計画」では観光リゾート産業と並ぶ中核的なリーディング産業とし ての集積と振興を目指していました。 そのような環境下、IT関連事業会社の有志が集い発起人となり、創設の目的として、IT産業 を観光に次ぐリーディング産業として、21世紀を拓く新産業の担い手となるため、オール沖縄 体制のIT企業が設立されました。 2002年10月、渡名喜守正氏を代表取締役社長として「株式会社フロンティアオキナワ21」が 設立され、IT人材育成や県内企業からのソフトウェア開発の受注を拡大、2009年に沖縄IT津梁 パークがスタートし、その中核企業としてニアショア機能を柱とした事業計画の下、県内IT企 業へ資本協力増資を行い2008年に「株式会社沖縄ソフトウェアセンター」として社名変更し再 スタートしました。私も2008年から4年間社外取締役として、2012年からは監査役として就任 しましたが、2008年のリーマンショックは受託開発の停止が相次ぎ、経営も大きな打撃を被り 財務状態も更に厳しい状況となる中、経営陣は会社存続の危機感から、経営の再構築として「受 託開発から開発・運用・保守のストックビジネス」へと方針転換を決断し度重なる苦難を乗り 越え、南郷社長、饒平名社長そして松田社長へと引き継がれ、本土からの受託開発の拡大を実 現させ、総勢200名体制へ拡大し着実に成長を遂げられたことに敬意を表します。 最後になりますが、貴社におかれましては、今後更に活躍の場を拡げていかれると存じます が、貴社が沖縄県のIT開発業界のリーダーとして重要な役割を果たしていかれるものと確信し ております。この20周年という節目を機会に、今後も役職員の強い結束力のもと新たな一歩を 踏み出され、30周年40周年さらには50周年へとご繁栄続けていかれますことを心より祈念申し 上げ、お祝いの言葉とさせていただきます。 株式会社りゅうせき 代表取締役社長 當銘 春夫 祝 辞 発刊のご挨拶 2 株式会社 沖縄ソフトウェアセンター 代表取締役社長 松田 崇 祝辞 4 沖縄県知事 玉城 デニー 沖縄振興開発金融公庫 理事長 川上 好久 一般社団法人沖縄県情報産業協会 会長 知念 克也 第一生命情報システム株式会社 代表取締役社長 佐藤 智 株式会社りゅうせき 代表取締役社長 當銘 春夫 口絵 10 第1章 20年の歩み 17 Ⅰ (株)フロンティアオキナワ21の歩み 18 Ⅱ (株)沖縄ソフトウェアセンターへの変革 38 Ⅲ (株)沖縄ソフトウェアセンターの基盤構築期 70 Ⅳ (株)沖縄ソフトウェアセンターの成長期 80 第2章 各部・委員会・BP紹介 93 Ⅰ 部署紹介 94 Ⅱ 座談会「20年の軌跡と今後の展望」 100 Ⅲ 協業社の声 108 Ⅳ 人材育成の取り組み 114 Ⅴ 委員会活動 116 Ⅵ ONDeP活動 118 第3章 今後の事業展望 121 Ⅰ OSCグランドデザイン 中期経営計画 122 Ⅱ 今後10年後の事業展望 124 資料編 127 Ⅰ 組織変遷 128 Ⅱ 財務状況の推移 132 Ⅲ 業務実績表 134 Ⅳ Fo21設立趣意書 144 Ⅴ(株)沖縄ソフトウェアセンターへの商号変更と沖縄IT津梁パークの中核企業の経緯 146 Ⅵ 臨時株主総会会議録 148 編集後記 151 目 次 9 8

沖縄の情報通信産業発展に寄与し 日本とアジアをつなぐ架け橋へ! 沖縄県内の有志のソフトウェア会社が集まり、2002(平成14)年に「(株)フロンティア オキナワ21」として創業し、2008(平成20)年に沖縄I T津梁パークの中核企業として「(株) 沖縄ソフトウェアセンター」へと商号を変更。その後、多くの方に支えられ、20年の時を 刻んできました。 これからも沖縄のソフトウェア開発力を結集し、日本とアジアの架け橋を目指して、情 報通信産業の発展へ寄与します。 10 11

12 13

14 15

Ⅰ (株)フロンティアオキナワ21の歩み Ⅱ (株)沖縄ソフトウェアセンターへの変革 Ⅲ (株)沖縄ソフトウェアセンターの 基盤構築期 Ⅳ (株)沖縄ソフトウェアセンターの成長期 第1章 20年の歩み 16

The 20-Year History of OSC History 沖縄県は1998年に情報通信産業を観光産業に 次ぐリーディング産業に育てるために日本政府や 産業界、教育界など産官学一体となってマルチメ ディアアイランド構想を策定した。そして同政策 を推進するために特定非営利活動法人フロム沖縄 推進機構を設立してIT人材育成や先行モデル支 援事業と沖縄県のIT施策推進並びに企業誘致を 支援した。同構想は1996年に沖縄県の国際都市形 成構想で議論された「沖縄県産業創造アクション プログラム」を受けた、新しい産業の創出の検討 において、地理的距離の影響が比較的少なく、若 年失業者の就業機会の拡大にもつながる情報通信 産業が優位であることを前提とした、調査・検討 の結果たどり着いた構想であった。同構想には三 つのシナリオがあり、1つ目がコールセンターな どの情報サービス業の立地促進、2つ目がコンテ ンツ業の集積、3つ目がソフトウェア業の育成で あった。1つ目と2つ目が企業誘致を目的としたこ とに対し、3つ目のソフトウェア業は仕事を誘致・ 獲得して既存の沖縄県内ソフトウェア企業の事業 拡大と高度化を支援することにあった。 当時、沖縄県のソフトウェア業界は、コンピュー タの2000年問題(Y2K)の対応やクライアント・ サーバーへの移行など県内マーケット対応で多忙 であったが、同対応が一段落するとマーケット シュリンクが懸念されていた。他方、沖縄県に進 出していた本土資本のメーカー系ソフトウェア企 業は親会社からのシステム開発の受注で業績を伸 ばしていた。地元資本のいくつかの企業も本土市 場を目指して技術者の派遣やシステム開発を受注 していたが、小規模の受注が主な二次・三次の下 請け構造にあり業績拡大には至っていなかった。 そのような中、沖縄県は、1998年に汎用コンピュー タで処理対応していた人事システムをY2K対応の ためのマイグレーションを計画して、全国初の 沖縄県内企業で結成したジョイントベンチャー (J.V)に委託し、同システム開発を成功させ教育 庁や企業局へ展開して成功を収めていた。これに より、今までライバル関係にあった参加企業の経 営者や技術者がJ.Vや協業することで大型案件で も成し遂げることができ、自信を持つとともにノ ウハウの醸成に資することとなった。その際に当 時沖縄県の副知事であった牧野さんから「IT企 業が大同団結して県外の仕事を取りにいって沖縄 経済に貢献しよう」とハッパを掛けられ外貨稼ぎ の会社設立に向けた機運が盛り上がったところで ある。 2000年12月から翌2001年の春にかけて、特定非 営利活動法人フロム沖縄推進機構がIT関連企業 誘致業務を委託している本土企業からJava開発案 件の紹介を受け、7月頃まで(社)沖縄県情報産業 協会を中心にオール沖縄で開発体制を構築する ことができないかなど議論した。受注体制として ①(株)トロピカルテクノセンターを中心にした受 注体制、②(社)沖縄県情報産業協会を中心にした 受注体制、③コンソーシアムでの受注体制、④組 合での受注体制、⑤株式会社での受注体制、の組 織のあり方を検討した。さらにIT人材確保のた めの「Java関連の大型開発プロジェクト誘致と人 材育成」を検討した。その延長で2001年9月と10 月に沖縄県庁で沖縄県のマルチメディア推進室と ソフトウェア会社設立に向けて数度検討会を開催 したが事業に向けて不確定要素が多く断念した。 新たに2002年1月に、沖縄電力(株)と地元のソ フトウェア企業が中心となってソフトウェア会社 を設立することに方針を変更した。企画書を作成 して県内の経済界および多くのIT企業に参加を呼 びかけたが、参加の意思を示したのが(株)リウコ ム、沖電グローバルシステムズ (株)、(株)オーシー シー、(株)ODNソリューション(旧:(株)沖縄電 脳)、(株)アドバンテック、(株)創和ビジネス・マ シンズの6社であった。6社の中堅クラスで設立趣 意書や事業計画書の検討・整備を進め、3月の第3 回新会社設立検討委員会で設立趣意書Ver0.3が完 成し、ほぼその方向で進むことに決定した。その後、 数回の事業計画書の修正を経て設立趣意書を確定 して5月の連休明けに設立する方向で社長候補者 探しを進め、沖縄電力(株)を含めた数社に社長候 補として2〜3名程度に打診したが社長候補者が確 定されるまで会社設立が延びることになった。 2002年7月2日、(株)ビー・オー・ピージャパン の渡名喜社長がリウコムの仲吉社長へ挨拶のため 来訪した際に、同構想を話し社長就任を打診した ところ興味を示してくれた。前向きに家族で検討 していただき7月5日に内諾を得て渡名喜社長を社 長候補として運営参加会社6社に社長就任承諾の 説明をして了解が得られた。結果、渡名喜氏の個 人会社(株)ビー・オー・ピージャパンの7社で各40 株200万円を出資して、2002年10月1日に(株)フロ ンティアオキナワ二十一を設立した。 I (株) フロンティアオキナワ21の歩み [創設期] 2002年(H14年) 1月 新会社設立検討委員会設置 4月 第3回新会社設立検討委員会で「設立趣意書Ver0.3」で推進決定 7月 設立準備委員会を発足 8月 社長候補者に渡名喜氏を決定 1 (株)フロンティアオキナワ21設立の背景 創設期 2002年1月〜9月 18 19 20 第2章 各部・委員会・ BP紹介 第3章 今後の事業展望 資料編 ご挨拶・祝辞 第1章 年の歩み

The 20-Year History of OSC 沖縄タイムス 2002年10月2日 首都圏から顔が見えて信用を得るためにオー ル沖縄体制を目指して沖縄振興開発金融公庫と 沖縄産業振興公社および沖縄電力(株)、(株)琉球 銀行、(株)沖縄銀行、(株)沖縄海邦銀行、大同火 災海上保険(株)に事業計画書の説明と出資依頼を 打診した。 琉球新報 2002年10月2日 【会社設立・登記までの主な履歴】 2002年7月17日 第一回新会社設立発起人準備会を開催(議事録③参照) 2002年7月22日 金城司法書士事務所と会社設立に必要な資料作成と手続きの開始 2002年8月5日 発起人7社で(株)フロンティアオキナワ二十一の設立発起人会を開催(発起人会議事録を 参照) ※ 当初全出資者で設立予定をしたが、沖縄産業振興公社および沖縄振興開発金融公庫 側の出資手続に時間が掛かるため、発起人7社での設立に予定変更し、沖縄産業振 興公社、沖縄振興開発金融公庫へは並行して出資依頼の手続きを進めた 2002年9月17日 資本金の払込完了(別添資料④⑤参照) 2002年9月24日 第一回取締役会を開催して代表取締役に渡名喜守正を選出する(取締役会議事録参照) 2002年9月30日 9月20日の沖縄産業振興公社での出資面接会を経て直接投資決定通知を受ける (払い込みは12月) 2002年10月1日 法務局への会社登記提出と併せて、牧野副知事へ「(株)フロンティアオキナワ21設立報告」 と沖縄県庁でマスコミ発表 日経産業新聞 2002年10月3日 20 21 20 第2章 各部・委員会・ BP紹介 第3章 今後の事業展望 資料編 ご挨拶・祝辞 第1章 年の歩み

The 20-Year History of OSC 株式会社フロンティアオキナワ21の社章 22 23 20 第2章 各部・委員会・ BP紹介 第3章 今後の事業展望 資料編 ご挨拶・祝辞 第1章 年の歩み

The 20-Year History of OSC 2002年12月には、沖縄振興開発金融公庫、公益 財団法人沖縄産業振興公社、沖縄電力(株)、(株) 琉球銀行、(株)沖縄銀行、(株)沖縄海邦銀行と大 同火災海上保険(株)が第三者割当での出資がなさ れた。その際に沖縄振興開発金融公庫から「IT 会社の中心となり会社経営に責任持つ会社が多 めの出資をして欲しい」との要望で(株)リウコム が120株、600万円、 (株)ビー・オー・ピージャ パンが40株、200万円、(株)オーシーシーが20株、 100万円の追加出資をして株主14社、資本金5100 万円となった。 2004年7月には(株)沖縄電脳20株 100万円の追加 出資をするとともに、(株)エクサから受託した第 一生命保険(株)のプロジェクトに複数の技術者を 派遣していた(株)琉球ネットワークサービスが当 社との協業拡大を目的に、第三者割当での出資40 株 200万円がなされて、株主16社、資本金5400万 円でオール沖縄体制が整った。 沖縄タイムス 2002年10月1日 琉球新報 2002年12月27日 発起人代表 仲吉 良次氏 談 創立20周年おめでとうございます。沖縄を代表するソフトウェア会社に成長したことを心か ら喜びたい。日本復帰50年を迎えるにあたって、沖縄経済の進路を議論する中で3K産業(基地 経済、公共工事、観光産業)からの脱却と観光に次ぐリーディング産業の育成が熱心に話し合 われました。観光に次ぐリーディング産業の存在については「マルチメディアアイランド構想」 がスタートしており、ソフトウェア開発の仕事誘致が目標に上がっていましたが、沖縄県内の ソフトハウスは資本力が弱く首都圏から顔の見える会社がありませんでした。顔が見えて信用 のある会社にするにはソフトウェア業界で大同団結する必要を感じて関係者に声掛けをしまし た。牧野副知事は銀行時代からの友人であり、沖縄経済のために本土企業と対等に勝負できる 会社について常日頃から話しをしていました。幸い全国で初めてJV(ジョイントベンチャー)を 立ち上げて沖縄県の人事システムを構築していることもあり、懇意にしている社長達に声掛け をしたら「よし、やろう」と多くの声が返ってきました。若い人達に県外から「垣根を越えた 外貨稼ぎの会社作り」案の作成を依頼してマーケットニーズや5年間の事業計画案を数ケ月で 作ってもらい参加要望各社の社長と実現可能性に向けて議論を重ねました。併行して県内地銀 3行や沖縄電力(株)などの県内経済界や沖縄振興開発金融公庫などにも資本参加のお願いをし ました。ほぼ事業計画が纏まり「趣意書」もできたが、肝心の社長候補が見つからず会社立ち 上げまでに時間を要しました。2002年10月1日は、沖縄県庁で牧野副知事に会社設立の報告と 記者クラブで記者会見したのを思い出しました。沖縄の21世紀の情報産業のフロンティアにな る、という決意を込めての社名です。会社も大きくなったものだと大変喜んでおります。 (株)フロンティアオキナワ21設立当時を振り返って 24 25 20 第2章 各部・委員会・ BP紹介 第3章 今後の事業展望 資料編 ご挨拶・祝辞 第1章 年の歩み

The 20-Year History of OSC 初代社長 渡名喜 守正氏 談 2002年10月1日、社名を(株)フロンティアオキナワ21(Fo21)と命名した私は、将来への希望と 夢に満ち、意気込んでいました。スタートアップベンチャーに課された困難さに耐え、経験と 知恵と維持してきた良好な人間関係を生かし、日々精一杯の営業努力を積み重ねました。しか し在任1年5ヶ月の実績は惨めで、日本IBM(株)での誇りある営業歴は地に落ちました。20年経っ た今、私の大きな救いとなっていることは、Fo21が(株)沖縄ソフトウェアセンターと商号変更 し、健全な状態で現在に至っていることであります。この事実は発起人代表の仲吉良次様と会 社創設の大きな原動力となった現顧問の饒平名知寛様の執念と実務に長けたご努力の賜物だと 理解しております。更には、改組に当って重要な中心業務が、IBM時代の上司であった池田正 弘氏がエクサ社長として、私に最後にご紹介して下さった第一生命保険(株)様の請負業務だっ たことです。退任後、関係各位のご努力でこの主要業務が安定稼働し、今日の(株)沖縄ソフト ウェアセンターの基礎となったことは、有難く大変喜ばしい実績だと思います。今後とも関係 各位のご尽力で、小生が夢見た沖縄の中心的なソフトウェア企業に成長されますことを祈念し、 20周年記念の寄稿と致します。 2代目社長 饒平名 知寛氏 談 マルチメディアアイランド構想策定のワーキンググループの一員として、沖縄県の人事シス テム構築のためのJ.V(ジョイントベンチャー)の事務局長を兼務する中で沖縄県のソフトウェ ア業の発展を目指すには、県外マーケットへの進出が必須であると思うようになりました。当 時上司であった(株)リウコムの仲吉社長と牧野沖縄県副知事から沖縄経済の強化について、こ とある毎にオール沖縄で県外から「外貨を稼ぐ」仕組みを作らないと本土企業に対抗できない と聞かされておりました。その様な中、仲吉社長から「小さな沖縄のマーケットで勝負するの も良いが、県外から沖縄へ仕事を持ち帰ることができる会社の仕組みを作ろう、仕掛けてくれ」 と指示が出ました。(一社)沖縄県情報産業協会の若手経営者や沖縄電力(株)の方々とワーキン ググループを組成し、事業計画を練って仲吉社長を中心とする参加企業の経営者に提案しまし た。私にとって会社設立に向けた取組は初めての経験で大変でありましたが勉強になりました。 Fo21を無事に設立することができ、営業活動をスタートしましたが技術社員の確保や運営 会社からの技術支援が弱いため、受注業務は皆無の状況で細々とした要員派遣業務が中心とな り、計画通りの売上を計上することができませんでした。渡名喜社長は社長としての責任が果 たせないとのことから辞意を表明し、取締役会の説得で1度目は辞意を撤回しましたが、2度目 は財務状況の悪化もあり辞意を受け入れることとし、後任の社長として私が引き受けることに なりました。設立した翌年度の第2期定時株主総会においては、設立当初の取締役から若手取 締役に殆どが世代交代しており、(株)リウコムも仲吉社長から私へ取締役をバトンタッチして、 Fo21の経営に参画していきました。(株)リウコムは、沖縄振興開発金融公庫からの要望でIT企 業のトップ株主として責任持つ会社であったためおのずから私が代表取締役社長を引き継ぐこ とになりました。それからは(株)リウコムの常務取締役とFo21の非常勤社長と二足のわらじで 月曜日の午後はFo21勤務としました。携帯電話とeメールがあったのでどうにか兼務すことが できました。また、取締役全員が非常勤の無報酬であったため一般管理費を削減することがで き、利益の改善に繋がりました。その後、県内外からのソフトウェア開発の受注が徐々に増え ていきました。 26 27 20 第2章 各部・委員会・ BP紹介 第3章 今後の事業展望 資料編 ご挨拶・祝辞 第1章 年の歩み

The 20-Year History of OSC History [国内オフショア期] ♦会社組織の確立 ※営業体制の確立 ※受注体制の確立 ※株主との協業確立 ・組織の初期形成確立 ・トップ営業 ・BP要員を派遣 【時代背景】 Fo21が設立された2002年は、コンピュータの 2000年問題(Y2K問題)の対応が完了し、1990年代 後半から世界的に広がったインターネットの拡大 とパソコン普及で情報化への進化が謳われてい た。日本でも情報通信社会の到来を受け、政府に おけるIT化戦略が立案・推進される中、経済界 では多様化するデバイスへの対応で基幹システム の再構築やY2K対応後のシステム拡張などのシス テム投資や組込系開発の需要が拡大する一方で、 IT技術者の不足も相まって、中国やインドへのオ フショア開発が台頭してきた時期を迎えていた。 そのようなITマーケット環境下、国内首都圏か ら受注する業務を「国内オフショア開発」とみな し、これを担う会社としてオール沖縄体制で取り 組むとの目標を立てたが、実際には、社員採用の 困難や受注体制の確立で難産での船出であった。 【営業活動】 2002年10月1日に沖縄県庁で牧野副知事に設立 報告と記者会見をした。(株)フロンティアオキナ ワ二十一の設立当初住所登記は、那覇市久茂地 1丁目7番1号 琉球リース総合ビル11階の(株)リ ウコムのミーティングエリアに間借りして渡名喜 社長と社員1名からのスタートであったが、会社 とは名ばかりで規程も無ければ資産も無い、開発 要員も一人もいなく、社長が元日本IBMの顔を活 かした東京を中心とした県外での営業と追加出資 先を募る日々であった。ビジネス推進は営業案件 が出てきたら社長と主要会社4社の部長クラスで 構成する運営委員会で、運営会社からシステムエ ンジニアやプログラマーを派遣してもらい受注案 件をこなすことにした。 最初の営業案件は(株)伊藤忠テクノサイエンス 「以下CTC」と協業したJavaセンターの立ち上げ であった。同案件は、ハード販売が中心であった CTCがソフト基盤(現在でいうJavaフレームワー ク)を沖縄で構築してハード+ミドルウェアで全 国展開を目指す構想であったが、先方の経営都合 で実現に至らなかった。期待していただけに出鼻 をくじかれ大変残念な1件であった。 沖縄産業支援センターへの本社移転に向けて入 居希望の申請書と提案書での審査の結果、同年の 11月に転居に至った。転居と併せて会社としての 諸規定の作成や販売管理業務と経理業務の仕組み 作り、および人材採用のために総務部長を採用し た。営業展開では渡名喜社長が入手した開発案件 への提案書作成のために渡名喜社長の元部下の日 本IBM(株)のOBを臨時社員として採用して提案 活動を進めたが受注するまでには至らなかった。 2 (株)フロンティアオキナワ21(Fo21)設立当初の概況 国内オフショア期 2002年10月〜2004年3月 そのような中、渡名喜社長の営業力で大規模な開 発案件が持ち込まれたが要員確保や開発体制の確 立ができず断念した。 沖縄産業支援センターには事務所機能しか無 かった。将来的にシステム開発拠点を模索する 中で那覇市が構想するソフトウェウ集積拠点構想 の情報を得て並行して拠点作りへの参画に取組ん でいた。同構想は通産省(現経済産業省)の補助を 得て付加価値の高いソフトウェア開発会社を那覇 市銘苅に集積するためのインキュベーション施設 で、当時の高セキュリティーの開発室を設けて、 同施設を中心に銘苅地域にソフトウェア産業の城 下町を展開する企画であった。当時、沖縄県から 出向していた助役と企業誘致担当者と同施設の将 来性を議論して付加価値の高いソフトウェア産業 の集積構想を目指していた当社も中核企業候補と して提案とプレゼンテーションを行い、中核企業 認定を受けて2003年6月の那覇市IT創造館の完成 に伴って本社を移転した。現在も本社機能がある 那覇市銘苅2丁目3番6号那覇市IT創造館である。 ソフトウェア開発の場合、情報の機密管理が要求 されるため機密性の高い55余坪の事務室と開発室 の確保がかなった。 【経営課題と対策】 自社の技術者採用に向けて取り組んだが、設立 間もない会社のために技術者の確保に難渋した。 プロパー人材の不足を補うために株主からの要員 出向をお願いしたが、営業案件と技術者のアン マッチで案件の受注は叶わずビジネスパートナー の技術者を社員として派遣するのが主であった。 売上げは伸びず、沖縄と東京の事務所経費、営業 人件費などの固定費や、旅費、交通費などの出費 が大きく赤字であった。 営業実績を作るために社長の元部下を採用し て提案書での営業を試みたが、大手メーカー的 アプローチで案件が大きく新設の会社が担える案 件は無く断念した。それを解決するために運営会 社の部長クラス数名による受注体制検討委員会を 設置して毎週月曜日の夕方から沖縄産業支援セン ターの事務所で課題と対策に取り組んだものの、 社長のトップ営業で派遣(要員の押し込み)営業に 終始していた。また、売上と実績を上げるために 県内のIT株主企業へ社員を派遣して共同開発に 携わった。 組織体制の整備は、社長1名従業員1名の2名体 制でスタートしたが、会社運営に必要な諸規程・ 規則の整備と財務体系の確立とシステム導入が緊 急な課題となり総務担当の役席を採用して取り組 んだが、短期間で役席が2度も退職することにな り組織体制づくりも難航した。対策として、非常 勤役員の(株)アドバンテックの又吉常務が兼務し て対応することで体制を支援し経費の圧縮にも努 めた。 【会社運営】 無い無い尽くしでスタートした当初は、株式会 社を運営する諸規則や規定もゼロで一から構築す 2002年(H14年) 10月 Fo21設立(那覇市1丁目7番1号)・県庁記者クラブで記者会見 11月 本社を那覇市小禄1831-1の沖縄県産業支援センターへ移転 2004年(H16年) 3月 渡名喜社長が退任し饒平名新社長が就任 28 29 20 第2章 各部・委員会・ BP紹介 第3章 今後の事業展望 資料編 ご挨拶・祝辞 第1章 年の歩み

The 20-Year History of OSC History る必要があり琉球銀行OB1名を総務部長として採 用して商法に基づく最低限の規則・規程の制定、 財務システムや給与システムの構築を手がけたが 退職、引き続き採用した沖縄信用金庫OBも含め 短期間で2名退職し、組織体制づくりでも苦慮した。 会社設立当時の取締役会は全取締役が会社設立 発起人会のメンバーで構成されていたが、取締役 会での決議事項や連絡事項が少なく2〜3カ月に1 度程度の開催であった。但し、プロジェクトの受 注に向けた取り組みや見積もりの検討、技術支援 に向けて毎週月曜日の夕方から渡名喜社長を中心 に(株)アドバンテック:又吉氏、(株)沖縄電脳: 佐和田氏、(株)創和ビジネス・マシンズ:稲嶺氏、 (株)リウコム:饒平名氏が参加してプロジェクト の運営支援を行った。設立翌年(2003年)5月開催 の定時株主総会ではIT株主の役員は実務支援を 目指して渡名喜社長以外全て若手に交代し、2004 年6月開催の定時株主総会には新たに株主となっ た(株)琉球ネットワークサービスの上原氏が非常 勤取締役として経営に加わった。 【事業収支】 会計年度を4月から翌年の3月としたため、初 年度の半年間は売上総額24.7百万円に対して経費 が41.0百万円と多く当期純利益は16.4百万円の赤 字であった。2年目も売上総額56.6百万円に対し て経費が81.3百万円で当期純利益は24.9百万円と2 年連続の赤字で累損は41.3百万円まで膨らんでい た。売上を伸ばし、受注実績を出すために手始め に県内からの業務受注を進めて逐次県外への営業 を強化することにした。経費では、役員全員が非 常勤・無報酬とした。また、退職した総務部長の 後任は置かず、経理などの決済が必要な場合は、 (株)アドバンテックの又吉常務が行うことにして 一般管理費を極力抑えることで収支の改善を行い 赤字の圧縮に努めた。 【主な業務実績】 設立当初は、社員、中途社員も皆無で、渡名喜 社長が懇意にしていた(株)メディアトランスポー トから技術者を受け入れて東京の企業に派遣する ことで売上に貢献した。県内でのプロジェクト の支援には、(株)アドバンテックとの共同開発や (株)沖縄電脳への要員派遣で売上に貢献した。 ・ 県外SIerへ401Kシステム開発・保守で要員派 遣、建設工業の基幹システム基本設計への要 員派遣 ・ (株)沖縄電脳にクレジットシステム開発を要 員派遣 ・沖 縄県の主要企業がコンソーシアムで受注した 沖縄県の財務会計システム案件の開発室貸与 ・ (株)アドバンテックが受注したNQS/NQS-JM のLinux移植開発とABAPを共同で開発 【時代背景】 経済産業省は、ITSSやUISSなどの施策を立て て上流工程領域を担う「高度IT人材」の育成を 推進した。これは、IT企業でも良い提案をして受 注することにより、受注後のSI案件で充分な成果 を出すことで企業利益の拡大に繋げることが求め られ、かつ我が国の課題としてIT業界では約40万 人の人材不足が叫ばれた時期であった。下流工程 人材の確保と利益確保のためのオフショア開発が 台頭してきた状況もその背景なるものであった。 沖縄県でも特定非営利活動法人フロム沖縄推進 機構を中心に産官学連携でIT人材ピラミッド構 想を打ち立て、IT人材の育成・確保の取り組みを 進める一方で、沖縄総合事務局との連携による組 込系ITビジネスの拡大に資する人材育成施策を 展開するなど、官民が一体化した付加価値の高い 新たなソフトウェア業の発展を目指していた。関 連して、沖縄県ではマルチメディアアイランド構 想の実現に向けて、第1次と2次の情報通信産業振 興計画で3年ごとの数値目標を立て、企業誘致や 売上額、就業者数などの達成に向けてさまざまな 施策と対策を立てていた。この一環として沖縄県 はもとより関係省庁において公的予算を投入して 市町村におけるIT施設の整備に伴う企業誘致を 進め、このインセンティブとなる本土との通信費 の補助、IT人材育成支援などに注力していた。さ らに、沖縄県の東京事務所を中心に首都圏のユー ザーに対する沖縄県のIT施策のPRや沖縄県側企 業とのビジネスマッチングの場を提供するなど首 都圏からの誘致活動も積極的に実施された。これ に連動した県内のIT業界の動きとしては、北海 道のIT企業数社との共同受注を前提とした「国 内オフショア」として首都圏営業を行う際に、「安 かろう悪かろう」との認識を排除すべく国内地方 間協業を「ニアショア」と称することでオフショ アと区別し、付加価値の高い開発業務のイメージ 化を狙いつつPRしたところである。このような 経緯もありニアショアが業界用語として定着した ことも一例として強調したい。 なお、当時のIT技術はY2K対策後のクライア ント/サーバーなどのオープンシステムに移行し つつあったが、情報漏洩対策と集中管理目的のシ ンクライアントの流れに向けて動いており、その 中でもリッチクライアントという新たな試みが出 始めていた。その代表がBiz/Browserというツー ルであった。それをFo21の主力技術と位置づけ、 Biz/Browserのメーカーである(株)アクシスソフ トへアプローチを強化したことも時代背景として 言及したい。 3 (株)フロンティアオキナワ21の国内ニアショア初期の概況 開拓期 2004年4月〜2008年9月 [開拓期] ♦国内オフショア認知 ♦自社技術者育成 ♦単年度黒字化 ・組織の初期形成確立 ・トップ営業 ・BP要員を派遣 ・自社技術者確保・育成 ・株主技術者と協業して受注拡大 ・実績が出来、取引先増 ・主要取引先の拡大 ・余剰要員は県内IT株主へ要員支援 30 31 20 第2章 各部・委員会・ BP紹介 第3章 今後の事業展望 資料編 ご挨拶・祝辞 第1章 年の歩み

RkJQdWJsaXNoZXIy Mjc3MjQ=