株式会社沖縄ソフトウェアセンター 20周年記念誌

The 20-Year History of OSC 初代社長 渡名喜 守正氏 談 2002年10月1日、社名を(株)フロンティアオキナワ21(Fo21)と命名した私は、将来への希望と 夢に満ち、意気込んでいました。スタートアップベンチャーに課された困難さに耐え、経験と 知恵と維持してきた良好な人間関係を生かし、日々精一杯の営業努力を積み重ねました。しか し在任1年5ヶ月の実績は惨めで、日本IBM(株)での誇りある営業歴は地に落ちました。20年経っ た今、私の大きな救いとなっていることは、Fo21が(株)沖縄ソフトウェアセンターと商号変更 し、健全な状態で現在に至っていることであります。この事実は発起人代表の仲吉良次様と会 社創設の大きな原動力となった現顧問の饒平名知寛様の執念と実務に長けたご努力の賜物だと 理解しております。更には、改組に当って重要な中心業務が、IBM時代の上司であった池田正 弘氏がエクサ社長として、私に最後にご紹介して下さった第一生命保険(株)様の請負業務だっ たことです。退任後、関係各位のご努力でこの主要業務が安定稼働し、今日の(株)沖縄ソフト ウェアセンターの基礎となったことは、有難く大変喜ばしい実績だと思います。今後とも関係 各位のご尽力で、小生が夢見た沖縄の中心的なソフトウェア企業に成長されますことを祈念し、 20周年記念の寄稿と致します。 2代目社長 饒平名 知寛氏 談 マルチメディアアイランド構想策定のワーキンググループの一員として、沖縄県の人事シス テム構築のためのJ.V(ジョイントベンチャー)の事務局長を兼務する中で沖縄県のソフトウェ ア業の発展を目指すには、県外マーケットへの進出が必須であると思うようになりました。当 時上司であった(株)リウコムの仲吉社長と牧野沖縄県副知事から沖縄経済の強化について、こ とある毎にオール沖縄で県外から「外貨を稼ぐ」仕組みを作らないと本土企業に対抗できない と聞かされておりました。その様な中、仲吉社長から「小さな沖縄のマーケットで勝負するの も良いが、県外から沖縄へ仕事を持ち帰ることができる会社の仕組みを作ろう、仕掛けてくれ」 と指示が出ました。(一社)沖縄県情報産業協会の若手経営者や沖縄電力(株)の方々とワーキン ググループを組成し、事業計画を練って仲吉社長を中心とする参加企業の経営者に提案しまし た。私にとって会社設立に向けた取組は初めての経験で大変でありましたが勉強になりました。 Fo21を無事に設立することができ、営業活動をスタートしましたが技術社員の確保や運営 会社からの技術支援が弱いため、受注業務は皆無の状況で細々とした要員派遣業務が中心とな り、計画通りの売上を計上することができませんでした。渡名喜社長は社長としての責任が果 たせないとのことから辞意を表明し、取締役会の説得で1度目は辞意を撤回しましたが、2度目 は財務状況の悪化もあり辞意を受け入れることとし、後任の社長として私が引き受けることに なりました。設立した翌年度の第2期定時株主総会においては、設立当初の取締役から若手取 締役に殆どが世代交代しており、(株)リウコムも仲吉社長から私へ取締役をバトンタッチして、 Fo21の経営に参画していきました。(株)リウコムは、沖縄振興開発金融公庫からの要望でIT企 業のトップ株主として責任持つ会社であったためおのずから私が代表取締役社長を引き継ぐこ とになりました。それからは(株)リウコムの常務取締役とFo21の非常勤社長と二足のわらじで 月曜日の午後はFo21勤務としました。携帯電話とeメールがあったのでどうにか兼務すことが できました。また、取締役全員が非常勤の無報酬であったため一般管理費を削減することがで き、利益の改善に繋がりました。その後、県内外からのソフトウェア開発の受注が徐々に増え ていきました。 26 27 20 第2章 各部・委員会・ BP紹介 第3章 今後の事業展望 資料編 ご挨拶・祝辞 第1章 年の歩み

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